信州 小布施は、晩年の北斎が訪れ、四度も滞在した町として知られています。
当時の江戸は度重なる飢饉により市中が混乱を極め、綱紀粛正のため江戸幕府は天保の改革を推進、芸術は贅沢であるとして強い迫害の対象になっていました。江戸の町に息苦しさを感じた北斎は旧知の高井鴻山を頼り信州小布施に滞在、この地に多くの名作を残すことになりました。これらを収集、展示するのが、今回ご紹介する北斎館です。
訪れたこの時は、「北斎 -視覚のマジック-」と題した企画展が開催されていました。
この企画展は、北斎作品の造形にみられる特色や視覚的演出を「視覚のマジック」と称し、そのさまざまを紹介したものです。
絵師として活躍した期間中、北斎は30回以上も名前 (画号)を変えたそうです。北斎が使い世に知られるようになった画号を後進に譲り生活費を得た、というのがその理由といわれています。今の北斎の知名度からするととても考えられませんが、今も世に名と作品を残す芸術家には遅咲きも非常に多いのです。彼以外にも歌川国芳、伊藤若冲、世界に目を向ければ Vincent van Gogh (ゴッホ)、Paul Sezanne (セザンヌ)など、いくらでも例があります。なお、北斎の本名は中島鉄蔵です。
北斎の画号のうち今も彼のアイコンとして認知されているものは、以下の6つです。
1. 春朗
20歳で絵師としてデビュー、それ以前の生業は彫師でした。師 勝川春章の死後、流派の異なる別の師に師事し、勝川派を破門になりました。
2. 宗理
宗理派に入門した北斎ですが、宗理派の技法を数ヶ月でマスターし、異例の速さで二代目宗理を襲名しました。ここで北斎は (人ではなく)森羅万象こそが唯一の師であると悟り、独立を決意します。瓜実顔に小さな目鼻立ち、すらりとした長身を特徴とする宗理型美人を完成させたのもこの時代です。
3. 北斎
この時代に流行した読本 (勧善懲悪・因果報応をテーマとした本)の挿絵師として活躍します。基本は彩色なしの線画で、この時期に手掛けた読本は190冊にも及びます。
4. 戴斗
絵の技法解説書 (略画早指南)や図案集 (北斎漫画)が大ヒット、その名を世に広めます。国内のみならず、シーボルトを介して世界に「HOKUSAI」の名が知られるようになったのもこの頃です。北斎等、この頃の日本絵師の画法はフランスをはじめとしたヨーロッパ諸国の印象派画家たちに「ジャポニズム」として認知され、彼らの画に広く取り入れられました。
5. 為一
恐らく彼のもっとも有名な作品群である富士山を題材とした冨獄三十六景、滝を題材とした諸国瀧廻りを完成させたのが、この時期です。
6. 卍
「画狂老人卍」を名乗り、落款にも自らの年齢とともにこの名を示しています。錦絵から遠ざかり、肉筆画に傾倒した、北斎最晩年の時期です。
北斎館では、北斎作品を上記の6つの時期に分け、各時期の代表作を展示し視覚的特徴を解説しています。美術館は主に感じる場所であり学ぶ場所ではないはずなのですが、ここは感じながら学ぶことができる貴重な場所です。
この会期中に展示されていた作品のうち、私が特に印象に残したのは、以下の3点です。
写真左は祭屋台の天井画ですが、上記鳳凰図と共に東町祭屋台に描かれた龍図、および上町祭屋台に描かれた男浪図は、あべのハルカスで開催中の「奇才 -江戸絵画の冒険者たち-」に出品中でした。
こうして考えると、優れた美術品は全国どころか、世界中を移動していることがわかります。したがって、博物館・美術館の宝庫である東京都下に住んでいる場合は、近隣のそれらの企画展をウオッチしておけば、遠くに出かけずともほとんどの逸品をくまなく鑑賞できてしまうのかもしれません。しかし、私は首都圏在住ではありませんし、それはさておきクルマで出かけることが大好きなので、どこかで興味のある企画展があると知れば、どこへでも観に行ってしまうのですが・・・(^O^) 。
信州小布施 北斎館、十分に堪能させていただきました!
当館のパンフレットを、こちらに示します。
信州小布施 北斎館の基本情報
所在地: 長野県上高井郡小布施町小布施485
開館時間・休館日: 09:00-17:00 ・ 12月31日ほか休館
観覧料: 1000円 (特別展の場合は、別途)
URL: https://hokusai-kan.com/
駐車場: 普通車400円
見どころ: 北斎の滞在した小布施に残る名品群
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